(五)
庄左衛門と妙高は山門脇で雪袴(もんぺ)を履き、草鞋を藁で編んだ雪沓に履き替えた。急な石段を降りるので源助が用意してきた杖で雪に埋まった石段を確かめながらゆっくりと降りた。提燈の灯は雪に反射してあたりをボーッと映し出してはいても陰は暗かった。雪も上がって空には一杯星が輝いていた。時々通る風が杉や松の小枝に積もっている雪を落とした。パサッパサッと風が通る度に枝を揺さぶって雪が落ちる。
「足元にお気をつけなせえ」
源助が時々声を掛けた。凍りつくような外の風景とうって変わって妙高の心は熱く燃えていた。雪沓を通して足先がチリチリ傷む位冷たさを感ずるが、上体は火照っていた。身体のどこからか熱いものが湧き出してくる。妙高はそれが何であるか分からなかった。石段を降りきり曲がりくねった参道の千本杉林の間を抜け、大杉の辺りに降りると星空が眼の前に広がった。妙高は空に輝いている何百、何千の星の光が一つの束になって自分だけを照らしているように思えた。道幅は四尺あり、その道には登った時の足跡がくっきり残っている。夕方、庄左衛門と妙高が海岸寺に登った時のものだった。山の湧き水が流れ落ちる溝は黒い線になっている。急坂がだらだら坂となって雪の原に出た。小さな動物が水を飲みに来たのか小堰の縁に足跡が点々と雪原を横切って雑木林と小堰の間を往復している。妙高は雪に足を取られて滑った。
「あまりお急ぎになると転びますよ」
後から源助が声を掛けた。
「いつも子供扱いするのね」
妙高が振り向いた。頭巾の中の顔は美しかった。北風は吹いてきた。風は雪を散らして、提燈の灯りでキラキラ光った。風で提燈が揺れると源助は提燈を左右に持ち替えていた。折り重なるように枯れ薄が雪を冠って道を塞いでいた。雪の中を歩いて小半刻程、ようやく家に着いた。身体は汗ばむ程熱くなっていた。潜り戸を開けると右側に厩がある。広い土間は奥の方に続きその先にかまどがある。厩の中の馬が首を出した。
「アカ、眠っていなかったの?」
と鼻面を撫でながら妙高が言った。
「旦那さまと妙高さまがお出掛けになるとアカが落着かなくて困りました。お迎えに上がる時、連れてゆこうと思いましたが」
と源助が言った。
アカと呼ばれた馬は右の前足で床をコツコツ叩いた。そしてブルブルーンと鼻を鳴らして、厩栓棒の上から首を突き出した。鼻先を撫でながら妙高は、
「さ、眠るんだよ。安心おし」
とアカに言い聞かせるように鼻先を撫でた。厩の前を妙高が離れるとアカは二、三回鼻を鳴らしながら厩の奥の方に行って首を下げた。
上り框で雪沓を脱ぎ、白足袋も脱いだ。小じんまりした足ではあり足首は更にやせ細っていた。手燭に火を入れ母親の部屋の前に来ると
「お母さん、ただいま戻りました」
「妙高かい、おかえり。風呂に入るんだったら燃してお入り」
襖の向こうから母の声が聞こえた。妙高は風呂に入りたいと思ったが今夜はやめることにした。妙高の部屋には黒うるし塗の仏壇がしつらえてある。妙高は手燭から灯明に火を移した。灯明の火がゆらゆらと仏壇の中を照らした。上段中央に釈迦三尊の像が並び、中段右側に地蔵菩薩の立像が安置されていた。釈迦三尊の前には位牌が二基安置され、その前に香炉があった。灯明の火から香木に移し香の煙が立ちのぼると妙高は仏壇の前に坐り、手を合わせて瞑目した。灯明の火だけがゆれ、香の匂いは部屋一杯に漂った。微かに目が動いている。妙高の読誦は終わった。鐘を鳴らし仏前に一礼して、灯明の火を手燭に移し、灯明を消し行燈に火を入れた。夜具を延べ、夜具に着替え夜具の上に身体を崩して坐った。夜も更けている。時刻は子(ね)の刻に近づいていた。行燈の火を消し夜具に身体を横たえた。枕がいつになく妙に高く感じ眠りつくことができない。厩の方でコツコツとアカが足掻いている音が静かな暗い闇の中から聞こえてくる。妙高はアカの足掻く音で益々眠れない。
「・・・アカは私の心が分かっているのだ。何時も私が寝つかれない時、心が乱れている時、アカも落ち着かない・・・」
酒はとうに醒めてしまっていたが身体は湯を浴びたように熱かった。両の手で思い切り乳房を握りしめてみた。快い痛みが身体中を走りまわった。二度、三度繰り返した。身体の奥底から唸くような、喘ぐような響きが伝わってきた。
「アッ・・・」
小さな声が咽の奥から洩れた。妙高はその声を耳にした。我に帰った時、深い眠りの淵がそこに待っていた。
コツコツとアカの足掻く音も聞こえなくなった。津金山から吹きまわす北風が雨戸を時折ゆるがし、深い静かな夜だけがそこにあった。
(六)
貞治は眼を覚ました。雨戸の節穴から光が差し込みはじめた。雀の羽ばたく音が軒先からした。桃渓は炉の向こう側で夜具を被って寝息をたてている。炉の薪は燃え尽きて隅の方に燃えさしが転がっていた。貞治は音を立てないように起き上がった。炉の火をあらけ、そばにおいてある木箱の中から杉葉を一掴み取り出し火種の上におき火吹き竹に口をあて吹いた。二、三回吹くとポッと音がして燃えついた。箱の中には、たきつけ用の粗朶が手折ってあった。パチパチと燃えている杉葉の上に粗朶を置いた。火の勢いが増した。囲炉裏のまわりが火の明かりに照らされ、煙が天井の方にはい上がってゆくのが見えた。
「お目覚めじゃな」
桃渓はそう言って起き上がった。
「良く眠った。朝のお勤めは坊主の仕事」
納戸に行き袈裟に着替えてきた。朝の勤行が終わり、本堂から見上げる空は青かった。庫裏の棟の雪が朝日に照らされかすかに湯気を立ち上がらせていた。
「貞治どの、あの岩じゃよ!」
と桃渓が指さした岩は大悲閣観音堂参道脇、土塀の前にあった。根深く二た重ねに見えたが一つの大岩である。
「どれ、鐘を鳴らすとしよう。ちと遅いがの。鐘の音を聞いた里の衆、今朝は遅い、坊主め酒喰らって寝坊したと言うじゃろ」
冗談めいて言った。裸足に下駄をつっかけて鐘楼に行き梯子の下で下駄を脱ぎ鐘楼に登った。貞治は勝助に雪沓を持ってこさせ、それを履いて桃渓の指さした岩の前に立った。鐘楼の上では桃渓が仁王立ちになり気息を整えていた。
「いち、にいっ」
鐘突き棒の縄を握りしめ、両足を開き、棒を振り動かした。
「さん!」
グワワァ〜ン。
鐘の音は山々に響き渡り、谷を這った。貞治は雪の冠っている岩を見つめていた。
高さ七尺、幅四尺、厚さ三尺位の大岩である。北側は氷柱が数条吊り下がっていた。雪の下には苔が生え、黄褐色に先は枯れていたがその下は緑が濃く厚く岩を覆っている。陽の当たる東側は裂け目が縦に通っていた。貞治が岩を見ていると和一と勝助も岩の裂け目を手で追って調べた。
「棟梁、今日の仕事は?」
と和一が聞いた。
「雪も深い。ここに来てからゆっくりせなんだ。道具の手入れやらあるだろう。身体を休めるのも仕事だ」
と貞治は和一に言った。
「向こうで道具の手入れをします」
と和一と勝助は小舎の方に戻った。鐘を撞き終わった桃渓は庫裏で粥を煮ていた。
「粥ができた。朝食にせんか」
と貞治を呼びに来た。
貞治は湯気の立つ粥の椀を持ち箸を動かしながらも考えていた。
「和尚さま、馳走になりました。あの岩ですが、古いものです。大きさといい、幅、厚さは充分です。目もよくつんでいますから仕上げで磨きをかければ良い像が出来ると思います」
「妙高尼の希望は延命地蔵だったの。実家が裕福なので世間もあれで通が、本人は自分より不幸な人がこの世の中に沢山いる。その人達を救うために自分が何をしたら良いか悩んだ末の延命地蔵建立だと聞いた。あれは一昨年の夏のことじゃったかな・・・巡礼の一行がこの寺に来たんじゃよ。鐘を打ち鳴らし、御詠歌を唱えながら参道を登ってきおった。夏蝉がミンミン鳴いている暑い日じゃったよ。」
桃渓はそう言って眼を閉じた。桃渓の話によれば、施餓鬼の供養が終わって檀家衆が席を立つ頃に巡礼の一行が到着した。ぼろをまとい、汗と埃にまみれ、草鞋もすり切れていた。
本堂の前で供養の礼拝を行っている一行の中に、天刑病(癩病)を患っている男女がいた。手は腐り、眼は潰れ、膿の臭いが身体中に染み付いている。男女は巡礼の一行からも離れ、あたりを憚るように列の後ろの方に立っていた。桃渓に言わせれば「地獄絵」そのままの姿であると言った。その時、妙高尼は甲斐甲斐しく食物を一行に施与し、天刑病の人達には白地の木綿を家から取り寄せ自ら手当を行ったとのことである。
「あの時からの、妙高の眼付きが変わり、信仰の念が一層強くなった。」
と桃渓は貞治に話した。
<注>
「延命地蔵」:鎌倉時代以後、多くは岩上の蓮座に坐る僧形像で、右足は水平に横たえるが、立て膝とし、左足は垂れて踏み下げ、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ。子が生まれた時、この地蔵尊を信仰すると、母子が守られ、子の寿命が増すという。
妙高の心の中は、夫と子を失くし、独り身で実家の一室に生活しているとは言え、もの淋しさ、死者への追慕と供養の毎日であった。天刑病に罹り、生まれ故郷を捨て、巡礼の群の中に加わって、しかも巡礼一行の中でさえ遠慮しがちに隠れるように列から離れているその男女を、妙高は自己の身に引き比べ、同情と彼等の救済を強く願った。妙高のこの慈悲の心が「延命地蔵大菩薩像」の建立発願であった。貞治に造像の依頼に来た時はこのことを言わなかったが、桃渓には心の中を明かしていたのだった。貞治は、この話をじっと聞き入っていた。そして、
「精進潔済、一心をこめて造り上げましょう。百体観音の石は西国三十三観音を造る位は切って石切場に積んでおきました。村の衆の力をお借りして此方に運んで戴きます。和一と勝助に任せておけば安心です。先日お約束した通り、延命地蔵から彫りましょう!」
と桃渓に答えた。
「月の二十四日が地蔵の縁日とされているのが習わしじゃ。十日程で二十四日。その日を建立祈願の日としよう」
「よろしゅうございます」
貞治は一礼して席を立った。馬の鼻息と人の足音がして庫裏の外は急に賑やかになった。裏口から外に出ると仕事小舎の方に向かって雪が掻かれ黒褐色の道が通っていた。軒端は屋根から落ちた雪が二尺も積もっている。和一と勝助は石切道具の手入れを盛んにしていた。石工は人里離れた石切場に何日も小舎掛けして石切作業をすることがある。道具を大切にしておかないことには急な時に間に合わない。鍛冶の方法も一通り知って、道具の手入れをするのだ。ふいごの側に小さく盛土をしてその上に御幣が祀ってあった。
「勝助、新しい矢はどうだ?」
貞治が灼きを入れて矢の先を鉄の板の上で叩き形を整えている勝助に声を掛けた。
「今度のは堅くて良い鉄です」
と言って顔を上げた。そして桶の水に手を入れ加減を見て、赤く灼けた刃先が整えられた矢を入れた。ジューっと音がして湯気が立つ。しばらくしてから取り出し、熱を冷ますように土の中へ突き刺した。熱が冷めた矢を貞治が手に取って刃先を調べていると、馬の足音がして頬被り、半天着の男が桃渓と声高に話ながら入ってきた。馬の手綱をとっているのは男の娘のようだった。娘は男達が三人、小舎で仕事をしていると思っていたので顔を赤らめ横を向いてしまった。
「大降りでした」
男は貞治達に挨拶した。貞治も、
「大降りでした。ご苦労さんです」
と挨拶し返した。
「それで方丈さん。もっと早くお届けに上がるつもりでしたけんど、遅くなって。倉へ入れておきやす」
「ありがとう。早いも遅いもない。未だ年が明けん。寺だってそんなに食うわけじゃなし、あればあるなり、寺と言うもんはそんなものじゃ」
男は振り向いて、
「おいち、手綱を持ってろよ。俵を下ろすから」
おいちと言われた娘はしっかりと手綱を持っていた。和一は仕事の手を休めておいちを眺めていた。馬の両脇に括りつけられていた俵を男は倉に運び入れると、
「他の衆にも良く話しておきやす。では、ごめんなすって」
と親娘で山道の方に行った。親娘を見送った桃渓は手入れされた石切道具の一つ一つの使い道を聞いた。そして貞治に、
「百観音霊場の寄進を村々にお願いしたのじゃが、作の少ない衆が余り好い顔をせんと言っているんじゃよ」
村に年貢を納めに来たのは下津金村の喜八である。海岸寺は黒印五石の除地を所有しておりその他に寄進地もあるので小作地として貸してあった。喜八は寺の小作人の一人である。寺の檀家総代は各村の旦那衆がその席を占めていた。旦那衆と呼ばれる地主は、各村々で名主とか庄屋と言われる人達で小作地を持ち小作人衆を抱えていた。小作人達は地主達の様子を良く知っている。生活に直接結びつく利害については敏感であり、それぞれの立場を囁き合って、何時しか小作人側の意見となる。喜八は住職に心服していたので小作人衆の話の内容を桃渓に相談した。桃渓和尚だったら無理強いをしない、何かの時に旦那衆に口添えしてくれると信じて内密に桃渓に話したのである。
「つまらんお話しをお聞かせ申した。それであとのお二人の弟子は何時頃こちらに見えるかな?」
「もう直ぐだと思います。五人で掛かれば、三ヶ月程で仕上がるでしょう」
桃渓は貞治の自身に充ちた答えに像の彫刻には安心したが喜八の話を聞き不安感が胸中を横切った。庶民達の心の中には宗派を越えた根強い信仰がある。地蔵にせよ観音にせよ、それは姿であって人間の手によって具現された像の姿は何であれ、信心することで、庶民達は現世の幸福を願っている。桃渓の考えは、万民平等は仏の世界である。その仏のみ心を村人達が知り、自らの力で結集させ、救いの霊場を海岸寺に建設することを目的としているのだが、日々の生活に追われている人達は理想を求め、近づきたいと知っていても現実には自己の負担を軽くしようとする。桃渓は貞治の彫技に期待すると共に僧侶として庶民救済の先達となる覚悟を改めて自らの心に確かめた。