(二)
貞治は改めて桃渓和尚に来意を告げた。
桃渓和尚は
「良く来て下さった。拙僧が観音霊場をこの裏山一帯に勧請して、近在の人たちがわざわざ遠くまで旅することのないにと発願したのが動機で高遠の方に石工をお願いしたが思うに任せず、改めて諏訪の願王師に依頼したのじゃ。直ぐ返事が来て、貞治どのに書状を送っておいた、たぶん駒ヶ根の仕事が終われば参上するだろうと伝えてきたので近いうちに来て下さると心待ちにしておったわけじゃよ」
「願王師の書状を受け取りまして、四日程、塩供に滞在し、届けを出して此方に参りました。届けの方には、宿所をこちらの海岸寺様にしておきました。」
「結構、結構、どれ、お茶でも差し上げようかの」
「後に控えておりますのは、弟子の和一と勝助でございます」
「そんな所でかしこまっておらずに火の側に来ると良い」
桃渓はそう言って立ち上がった。勝手口の方でゴトゴトしていた。
「和一さんとか言ったな、一寸手伝っておくれ」勝助が立ち上がった。
「勝助でございます、何かご用で・・・?」
「これを持っていってくれ。炉の灰の中に立てておくれ」
孟宗竹の筒の中に酒が入っていた。勝助は酒がこぼれぬように炉の灰に埋めた。炉の火をあらけた。傍に炭桶があった。炭を取り出してあらけた火の上に置いた。
「竹筒で燗をつけた酒の味はまた格別、ちと待って下され。肴は漬け物じゃて」
茶碗が取り出され、前に置かれた。
「この寺は古い寺での、伝えられるところによれば行基菩薩が開かれたと言われ、もともとは、この裏山は、津金山と言うがその川向こうの念場原に在ったと言われ、後にこの地に遷したと伝えられておる。観音堂である大悲閣には千手観音が祀られており、後でゆっくりと拝観して戴うと思っておる」
青竹の皮が焦げる匂いがした。酒が温まってきた。
「燗がついたようじゃ。どれ」
そう言って貞治から茶碗に注ぎ、手酌で自分の茶碗に注いだ。
「貞治どの、そちらのお二人、お願いしますよ。願王師も期待しているようなのでな。願王師に逢って来られたかな」
「出立するとは言伝えておきました。杖突峠の上で温泉寺の方に念じ、一直線に此方に参りました」
「そうかの、信州はもう冬じゃろな・・・」
桃渓と貞治は話が弾んだ。大徳利から何回も竹筒に酒が注ぎ込まれ、燗をつけた。
桃渓はいつとなく上機嫌だった。諏訪の温泉寺で願王和尚に紹介され、その後、二、三度顔を合わせたが、その時はあまり話をしなかった。願王和尚と違った冷徹さのあるお人だと貞治は思っていたが、酒のせいもあるのか、打ち解けて良く喋っていた。普段、無口の貞治も夜の更けるまで炉を囲んで観音霊場のこと、貞治も知らぬ願王和尚の話と尽きることがなかった。和一と勝助の寝所は裏にあると言うので荷物を持って下がった。
「庫裏は広い。何処でも巣くうが良い」
「今夜はここで結構です」
話も尽き、夜具を掛けて炉のそばに二人とも寝込んでしまった。
(三)
寺の朝は早い。寝坊の雀がねぐらから飛び立つ頃、海岸寺の本堂には灯りがともされていた。桃渓和尚は紫衣をまとい盛装し、後に貞治が端座していた。桃渓が貞治の前に座り、
「貞治どの。今朝は拙僧の百番観音霊場、造立発願、貞治どのにとっては初ノミの日と存念する。どうか拙僧の願いを貞治どのの冴えた腕で彫り上げ、普く衆生の救済に役立てて戴きたい。仏に祈願し、我等が心根お聞き召されと今朝の勤行を行う」
桃渓は、凛として宣言した。
「わたくしめもその存念でございます」
桃渓は本尊に向かって合掌した。香を焚き勤行が始まった。鐘が響きわたった。和一と勝助も何時しか片隅に座っていた。
「般若心経を誦す。唱和されたい」
桃渓和尚の読経の声は腹の底から発せられている。堂内の静けさは破られ、朗々たる読経の声が堂内を圧した。
「・・・色不異空 空不異色 空即是色 受想行識 亦復如是・・・」
般若心経が終わると
「観音経を誦し奉る」
と言った。香の匂いが立ち込め、荘厳さは増した。
「・・・世尊妙相具 我今重問彼 仏子何因縁 名為観世音 具足妙相尊 偈答無尽意
・・・・・・・・・推落大火坑 念彼観音力 火坑変成池・・・・・・・・・」
貞治は今まで観音を彫る度に観音経を誦していたが、今朝の「念彼観音力」は心の中に響きわたり、こだまのように波打って還ってくるように思えた。
・・・後生まで残る仏を彫ろう。彫ることのみが使命であり、有髪と言えども仏に仕えることの身である。一心不乱に読経をした。
「和尚さま、わたくし、願王師よりもくれぐれも立派なものを彫れと言いつかっております。命の替えても完成致します」
と誓った。
「有り難くそのお言葉をうけたまわった。よろしくお願い致します。朝粥でも摂って、色々と打ち合わせよう」
男四人で朝食の支度にかかった。炊事場は四人の男が入れば狭くなる。
和一が、
「勝助と支度を致します。和尚さまと棟梁はそちらでお話下さい」
「ハハハ、追い出されたか!」
勤行時の威厳はどこかに消え、童顔に戻った桃渓だった。
「この庫裏の裏手に小舎がある。前の石工達が起居したところじゃ、後で見てくれんかの。昨夜は弟子二人に泊まってもらった」
「和尚さま、材料の石でございますが、この付近にございますでしょうか。石採り四分と言いまして、石切りに時間がかかります」
「気に入るかどうかじゃが、この海岸寺山の峠を越え、浅川村をぬけると樫山という村落に入る。樫山の方に行けば石はある。浅川村の南にも少しあるようじゃ。前の連中がそこから切って来たようじゃが、そうそう、小舎の中に切った石がある筈じゃよ」
和一と勝助が粥を運んできた。椀をとって、
「たっぷりと野菜と茸が入っているわい。味つけも良い。美味い、美味い」
と桃渓は粥をすすり込んだ。朝粥が済むと外に出た。秋晴れの好い天気だった。
貞治は佐久往還道入口の箕輪から津金川を渡って峠を登り、下津金の村中を通り過ぎる時、農家の庭先で豆を打つ音、藁を叩く音がしていたのを思い出した。秋の取り入れも終わり、この辺りの農家は高遠と同じように山仕事に入るのかと思ったのである。空を眺めた時、その風景を思い出した。庫裏の東側裏手に建てられている小舎へ向かった。小舎は十坪程であった。二つに仕切られ、三坪程の方は寝所になっていた。七坪程の作業場の中に石が転がっていた。入口の風通しの良い場所に「ふいご」があり、炭も置いてあり、一応の作業道具はあるようだった。西側の壁の外側には薪が山と積まれている。
「ふいごをお使いになるんじゃったら、堅炭があるのでそれをお使いなされ、井戸は少し遠いが手桶が沢山あるので好きなように使ってくだされ」
和一と勝助は陽向で荷をほぐし、石切道具を並べ手入れをし始めた。
「棟梁の道具は、ここに置いときます」
勝助が貞治の道具をふいごの側に置いた。
貞治は道具に自分で手をいれる。ふいごを使って灼きを入れ、水でさまし、刃をつける。何時も手を入れておかなければ仕事中に間に合わなくなる。それだけ貞治は道具を大切にしていた。貞治の行李は庫裏の方に移された。
「この石じゃよ」
桃渓が指さした石を貞治は丹念に見ていた。
「何処で切ったんでしょうか」
「これが樫山の方で採った石と聞いた」
と裏手の方を桃渓は指さした。
貞治は毎朝の勤行は欠かさなかった。勤行が終わると朝食もそこそこ和一と勝助を連れて石切場に出かけた。海岸寺から津金山の峠を越え、浅川村に入り、樫山の山峡である。道程は約二里、朝夕の往復は大変であったが、石を採っておかないことには仕事にならぬのである。桃渓和尚が目指す観音霊場は「西国、板東、秩父の百観音」である。百体の観音像を石彫するには大量の石が必要である。この樫山の石切場もせいぜい三十体程あればと見当をつけておいた。石を切っても運搬が大変である。運搬は村人の手を借りなければならないと思っていた。ともかく雪が来るまでには何が何でも石を採っておくことが先決であるので夢中だった。高さ三尺五寸、幅一尺五寸、厚さ一尺の石、蓮台、敷石と切り刻まなければならない。一日に良く採って三個である。場合によっては一個の時もある。和一も勝助も必死であったが決して貞治は無理させなかった。怪我が大敵である。石切場の不注意は命にかかわる大怪我になる。若いうちから何人も目の前で石に押し潰されて遭えない死を遂げた仲間を見ている。一寸先は死の淵が大きな口を開けている石切場の作業である。風も冷たい北風になってき た。幸い石切場は南に面する斜面にあるので北風は避けられたが、乾いている赤土の埃が巻き上がって目が開けていられない日も続いた。八ヶ岳が真っ白に雪を冠り始めると霜柱も一寸、二寸と高くなる。皮足袋を履いていても冷たい。八ヶ岳が真っ黒になり、南西の方が暗くなって北風がやむと雪になる。貞治達が石切を始めて約1ヶ月目のある日、大雪になった。津金の山も真っ白になり、毎朝、庫裏の上で鳴く鳥がやけに真っ黒く見えた。
貞治達が石切をしている間、津金の人達は山仕事に精出していた。木挽き馬が松材を挽き出していた。山の斜面の炭焼き小舎からは煙が立ち上っている。葉の落ちた柿の木のてっぺんに穫り忘られた柿は鳥達に食い荒らされてへただけ残していた。青い葉をのぞかせているのは麦田だけで、あたり一面、自然も冬籠もりだった。雪が降って一面真っ白になった日、石切仕事は当分出来ないので石切場の片づけに行き、夕方疲れた身体を引きずるように貞治達は海岸寺へ帰ってきた。
「お疲れのところすまぬが、客人が貞治どのをお待ちしている」
と桃渓が石切道具の整理をしている貞治の背に声をかけた。
(四)
囲炉裏を囲んで客人が二人来ていた。貞治が入っていくと、
「こちらへ」
と桃渓和尚が言った。顔が少し赤かった。
「貞治どの、紹介しよう。こちらは下津金村の庄屋、庄左衛門さんで、隣りに座っている女性は庄左衛門さんの御息女、妙高尼、有髪ではあるが故あって仏門に帰依し、父御、兄御と共に家業を助けるかたわらに仏にお仕えしている方じゃ」
庄左衛門と妙高尼は床に敷かれてある円座からすべり下りて頭を下げた。
「どうぞ、そのままで・・・」
「貞治どの、初めてお目にかかります。お見知りおき下さい、庄左衛門奴でございます。これは娘の妙高、嫁ぎ先での重なる不幸、つれあいも子供も失くしこちらに帰っております。父娘ともどもよろしくお願い申し上げます。世間のお噂通りのお方、お逢い致し有難く思っております」
「妙高でございます。今、父が申した通りです。ふつつかものですが、お見知り置き下さい」
貞治は丁寧に頭を下げた。
庄左衛門は内織の羽織と着物、妙高尼は地味な盲縞の着物に無地の羽織、何れも絹地で着衣は贅沢のものだった。妙高尼、歳の頃三十六歳位、小柄な身体、色の白い卵形の顔、目はまつ毛が長く、黒髪がローソクの火に映えて光っていた。
「それで、お願いがございます!」
と庄左衛門が貞治の方を向いて言った。
「方丈さんともお話申したのですが、この妙高が是非供養仏として「延命地蔵尊」を建立したいと言っております。貞治どのに是非彫って戴きたいと思い今夕お願いに上がったのでございます」
ローソクの火が時折ゆれて三人の影がゆれていた。妙高尼はじっと座ってうつむいて話を聞いていた。
「もちろん、お彫り戴く地蔵さまはこのお寺の境内にお祀りしていただきます。私共親娘の願いを聞いていただけるでしょうか」
貞治は黙っていた。
「のう、貞治どの。願いを聞き届けて下され、寺としてはそれ相応の御寄進をして下さるとの庄左衛門さんの御意志も承っておるんでな」
「わたしはもともと口下手な男です。和尚さまさえ良ければ何の異存もございませぬ。今夕ここでお逢いしたのが幸い、わたくしなりのお願いがあります。お聞き届け願いたいのですが」
と、砕石場のこと、石切り出し作業そして運搬方法等をこと細かに話した。妙高は、淡々と話す貞治の口元を見つめていた。数珠を持ったふっくらとした手は両膝にきちんと置かれ、ローソクの火が妙高の左顔を照らし出し、右の顔は黒く彫り込まれたように陰影をつくっている。小鼻がちょっとだけ丸く張り、鼻筋がくっきりと映し出されていた。貞治と目が合うとローソクの火に目を移したり、裾を合わせたりしていたが、話が馬ぞりを使いたいと言った時、身体をのり出して聞き入っていた。
「それで、和尚さま、庄左衛門さま、是非とも村の衆と馬をお貸し願いたいのです」
「ええ、そりゃよろしゅうございますよ。私の作男達や馬をお使い下さい」
庄左衛門は快く引き受けた。
「その折には是非とも。それで和尚さま、石像の方ですが、石を切り出し、石像と蓮台、基壇石、敷石と分けて切り出しておきましたが今の石切場では到底間に合いません。当座のものは何とか間に合いますが」
「石切、彫像と百体、石切場も一か所や二か所では間に合わないな。歳月は貞治どのさえ良ければ何年かかっても良いがの」
「ともかく、やってみなければ・・・」
と貞治が言った。貞治は百体観音の方を先に彫るつもりだった。
「妙高さんの地蔵菩薩を先にしても良いんじゃよ」
貞治の考えを遮ぎるように桃渓が言い出した。貞治は無言で火箸で火をあらけ、炉へ薪をくべた。
「ところで、いつもは女気一人とてない山寺じゃが、今夜は妙令の美人がおるわい。少々冷え込んできた一献いただくとしよう。ホレ、そこに茶碗がある。般若湯は」
と、桃渓和尚が立ち上がった。妙高は後に置いておいた風呂敷包みを取り開いた。
「おとうさん、これ炉のふちに差して」
とすぐり藁に包まれている干し魚を庄左衛門に手渡した。その下には重箱が二た重ねあった。ふたをとると野菜の煮付けが入っており、ゆで卵もあった。
桃渓が勝手の方から徳利をぶら下げてきた。例によって竹筒二本を左手に持ってきた。
「ほぉーこりゃ、ご馳走じゃ」
そう言いながら、徳利の酒を竹筒にドクドク移していた。程なくして酒宴が始まった。妙高は酔いがまわったのか、目のふちが赤くなった。酒豪の桃渓和尚は庄左衛門を相手に茶碗酒をあおって、今年の農作物はどうだとか府中の街の様子を話していた。貞治はなめるように一杯の茶碗酒を飲んでいる。
「焼けました。おひとつ」
と妙高は貞治に干し魚の櫛差しを出してくれた。山女魚だった。
「この下を流れている津金川に山女魚が沢山いるんですよ。父が釣りを好きなものですから時期になると毎朝のように行くんです。釣ってきた魚の始末はわたくしがするのです」
「信州のわたくしの家近くにも川があります。山女魚が棲んでいましてね。少し山奥に行きますと岩魚もいるのです。同じように干し魚にして冬場までとっておきます。天竜の方に行きますと大きな鯉がいまして、網で獲り、堀に飼っておき、鯉こくにして寒い時分に食べます」
貞治の口から「鯉」と出た時、妙高はハッとした。身体中が火のついたように熱くなっているのを感じた。それを押しかくすように、
「わたくしが煮付けたものです。和尚さま召し上がれ」
と重箱のまま差し出した。重箱の隅には竹で作った楊子が五本ほど固まって一つの芋に刺されていた。ささやかな酒宴の話題が途切れはじめた頃、玄関に人の声が聞こえた。
「旦那さま、お迎えに上がりました」
「おっ、もうこんな時になったか、妙高、お二人とも朝が早い、おいとましよう」
海岸寺と庄左衛門の家は約一里の道のりである。今から帰っても小半刻程かかる。
「お願いをお聞きとどけて戴きましてありがとうございます。また明日にでも重箱を取りに上がります。これでおいとまさせて戴きます」
庄左衛門親娘は寺を辞した。庫裏の玄関から丁燈のあかりが見えなくなるまで桃渓と貞治は見送った。
「冷えて来たわい」
そう言いながら、庫裏の大戸を閉め、二人は囲炉裏の前に座り直した。
「貞治どの、やはり、妙高さんの地蔵菩薩が先の方が良さそうじゃ。貞治どのの腕の見せどころだと思うがな」
「和尚さまがそうおっしゃればそのように致しますが、像の大きさによって石を見つけねばなりません」
「いやさ、妙高さんの話を聞いているうちに思い出したんじゃ。本堂に向かって左手、大悲閣参道の左側に大岩が二つ重なっている、あれで良かったらと思っとるんじゃよ。大きさは妙高尼を少しだけ小さくした位じゃがな」
桃渓は、自分が造像するかのごとく大満悦の体でのっけから言い放った。
「明朝見せて戴きます。良い石であれば、その場で細工ができます」
貞治もその気になっていた。ならされてしまったのかも知れない。突然、桃渓が大声で笑い出した。
「所詮、女性には男は弱いもんじゃよ」
貞治の大声をたてて笑った。
「わたくしめも同じことを思っておりました」
ローソクの火がパチパチと焔をあげた。灯芯が燃え尽きようとしていた。
「この部屋はぬくい。このままごろ寝と洒落こむか。貞治どのも一緒に寝ようぞ」
と言って桃渓は立ち上がった。足はよろめいていた。
「どれ、夜具を持ってこよう」
部屋が暗くなった。夜具にくるまった桃渓は大鼾をかいて眠り込んでしまった。貞治は眠りつけなかった。ウトウトすると夢を見た。
「・・・貞治よ。大酒喰らって、大口たたいて、それで大鼾じゃ。あれで女にももてる。だが良い奴じゃよ。男でも惚れ込む、貞治もぞっこん参るかも知れんな。学問も字も達者、口も足も達者、医術にも長けておる。学びとるものが沢山ある。・・・」
師の温泉寺、願王和尚の声だった。甲州に行くようにと手紙を貰い、急いで来たので諏訪の温泉寺には寄らずじまいだった。また聞こえてきた。
「・・・おまえは少し律気すぎる。律気も良いが像の流れが固すぎる。良いかな、流れが固すぎるのじゃ・・・」
コソッと音がした。板の間を走る足音がする。桃渓の枕元の方に近寄っていった。重箱が置いてある。足音が止まった。しばらくするとコトコトし始めた。桃渓の鼾が止んだ。
「うるさいネズミどもじゃ、餌をやるから向こうへ行け」
重箱から何やらつまみ出すと壁際の方に投げた。やや経って、壁際でチュチュと声がした。ネズミが何やら奪い合いをしているようだった。貞治はその声が天からの楽の音のように聞こえ、何時しか深い眠りの淵に落ちていった。
(五)につづく