midi:あささん
(Naturally art Studio)

海 岸 寺 の 歴 史
「甲斐の国」とは 山間の「狭」から来ているという。その名の通り 四方を山地に囲まれた山梨は 総面積の8割が山林で占められている山国である。

武田信玄が居館を構えた甲府より北上すること20数キロ 長野県との国境 北杜市清里を目指して旧・佐久往還道(甲州と信州を結ぶ旧道)を進むと 当山である臨済宗の名刹「津金山・海岸寺」がある。海抜約1.000mの位置にあり 津金山の南斜面にひらかれた3ヘクタールの境内は 南アルプスの連峰と相対する眺望を誇っている。

海岸寺はその昔 この道を通る人々の心の支えとしてきた。 そして 周辺地域の約500戸の菩提寺であり 禅僧はもとより明治前後には 幕末から明治にかけて一刀正伝無刀流を開き 明治維新では勝海舟 西郷隆盛らと親交を重ね 剣の奥義と禅宗(臨済宗)を極めた山岡鉄舟と 2.26事件に倒れた当時の大蔵大臣・高橋是清 東洋大学の創立者・井上円了など 多くの文人墨客がこの寺を訪れている。彼らがこの旧道を歩いた当時でも 春には雲雀がさえずり 秋には秋桜がゆれているのどかな田園風景が広がっていた。彼らは津金の集落を北に向かって ゆるやかな坂道を 海岸寺を目指して登っていったのである・・・現在 道路の整備こそ変わってしまったが 周囲の聖域としての自然豊かな風景は 少しも変わっていない。

さて 海岸寺の歴史と由来を 紐解いてみよう。
今より約千三百年前に(元正天皇の養老元年・西暦717年)行基菩薩が庵をかまえられたのが 海岸寺の始まりといわれている。行基菩薩は 土木工事や農業技術を伝えるとともに 千手千眼観世音の像二体を彫り 一体を海岸寺に祀り 残りの一体を 信州津金寺(長野県北佐久郡立科町に現存する天台宗の寺・元亀三年に武田信玄が寺領千石を寄進)祀った。 天平九年(737年)には 聖武天皇より「光明殿」の勅額を賜わっている。

また 寛治年間(1087〜1094年)新羅三郎義光が 甲斐の国主としてこの国を支配するにあたり 京より玄観律師を海岸寺に迎えて聞法の師として仰ぎ 深く帰依して国家鎮護の大道場とした。義光の子・義清も 父の志をついで多くの寺領を奉納し 供華を怠らなかった。

六百年ほど前の応安年間(1368〜1375年)大義全和和尚(武田十一代五郎三郎政綱の孫逸見丹波の守武清の弟忠俊)の時に 鎌倉・建長寺より石室善玖和尚(勅賜直指見性禅師・本朝高僧伝巻三十二詳記)を招いて 律宗を臨済宗に改め 海岸寺の開祖とした。天正十年(1582年)織田信長が甲斐に侵攻の際 その臣川尻鎮吉により 寺の堂塔ことごとく焼き払われたが 同十年には 徳川家康が 寺領を寄進し再興を命じた。慶長八年(1603年)には さらに寺領を寄進し法令四条を下して天下安寧の祈願所と定められた。

万治四年(1661年)山火事により 堂宇全焼。寛文六年(1666年)中興の祖 即應宗智和尚が 海岸寺山主として堂宇を再建し 現在に至っている。

境内を彩る春の桜 新緑の初夏の香り 野草の咲き乱れる夏 紅葉に色づく秋 深い雪にこもる冬など 堂宇は 四季それぞれの風情をもって 訪れる人の心を禅の境地に誘ってくれる。

仁王門から鐘楼を望む
観音堂(大悲閣)への石畳の参道
守屋貞治の石仏群が静かにたたずむ
観音堂から本堂(福聚海殿)と石仏群を望む
海 岸 寺 の 名 前 の 由 来
八ヶ岳の南麓六キロメートル 標高千メートルの津金山中腹に位置する山寺ながら なぜ「海岸寺」なのだろうかと 訪れる人は この素朴な疑問を抱く。海岸寺の名前のいわれは 2説ある。

1つ目は 経文からきているという説

新華厳経(第六十八説話)の中に「観世音(かんぜおん)の本所 補陀落山は天竺南海中にあり」を訳して この補陀落山は海岸孤絶山というのに依るとする寺名の由来にそのまま一致して 「海岸寺」の名が付けられたという説。

2つ目は 盆地の湖水説

大昔、甲斐の国の盆地一帯が 湖水であったという説。また、海抜約千mもあるので、雲海を見おろすところから名付けられたという説もある。更に「津金むかし話」によると 韮崎市に「穴観音の雲岸寺」というお寺があり この雲岸寺と津金の海岸寺は名前が交換されて付けられたという言い伝えがある。その昔 津金と韮崎の二つのお寺の名前を書いた紙を託されて 京の都から使者がやってきた。この使者がお寺の紙を間違って渡してしまった。津金の山の上の雲の上のような所にあるお寺が「海岸寺」で 韮崎の七里岩の先端にある穴観音が「雲岸寺」となったという説。

「津金むかし話」 発行編集:津金むかし話編集委員会 平成2年初版 より引用

名工・立川和四郎富昌の建築
本堂(福聚海殿)
観音堂(大悲閣)
粟とうずらの彫刻
正面鴨居の彫刻
町指定建造物・名工宮大工・立川和四郎富昌

観音堂(大悲閣)は 慶長八年(1603年)建立 現在の建物は 文化七年(1810年)徳川末期の信州は諏訪の名工・立川和四郎富昌らによって 弘化二年(1845年)着工後約二十年の歳月を費やして竣工をみた立川流を代表する建物である。その特色は 建物外周部分の細部に優れた彫刻によって装飾が施されている。中でも身舎正面部分の彫刻は素晴らしく 正面中間に付された「粟とうずら」の彫刻は その最たるもので 富昌建築の芸術的才能をあますところなく発揮した名作である。

本堂(福聚海殿)は 慶長八年(1603年)建立 寛文十一年(1671年)再建 昭和六十三年(1988年)修復。本尊は 「釈迦牟尼如来」

出典:旧・須玉町教育委員会 

津金山 海岸寺 全景図

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